林檎博が終わった。
もう、なんと言っていいやら……。私はとにかくすばらしいものを聴き、見た。それしかない。
もっとも感銘をうけたのは、中間部である。
初期から2枚めが中心だった序盤・中盤を経て、「茎」がはじまったあたりだ。
これ、ちょっと期待しないでもなかったんだけど――林檎さんの日記から、今回斎藤ネコさんが出ることがわかっていたので――「茎」は「大名遊ビ編」であった。つまりフルオケ。
というか、そのまえからずっとフルオケだったんだけどね。「シドと白昼夢」はとうぜん「奥さまは魔女」Ver. で最高だったし、「罪と罰」はあまりの迫力にふるえがきた。
とにかく今回は、いちど聴いてみたいもんだと思っていたあらゆるフルオケの曲が演奏されていて、それだけでも壮絶に至福なのだが、なかでも「茎」は別格である。
演出も凝っていて、ダンサー(イデビアンクルーの方がたなんだろうか)とともに、機械人形が自立する(……すごく即物的なまとめかただが)ストーリー仕立てになっている――とみた。
「立ったら 二度と倒れないから」というわけだ、たぶん。
ここでもう(2日とも)号泣モードに入ってきたところに、ホラきました兄上! 「この世の限り」と「玉葱のハッピーソング」である。
兄上がお出ましになることは、じつは金曜に行った人から聞いていたのだが、「茎」→「この世の限り」→「玉葱のハッピーソング」という流れだと、さらに格別に感じられる。
きのうはそうは言っていなかったのだが、林檎さんはきょう「玉葱のハッピーソング」のことを「自分もいつかこんな曲が書けたらいい」と語ったのだけれど、否。林檎さんはすでに実現している。
それは、自分でも感じていないわけではないだろう。そうでなければ、この直後に「夢のあと」を歌うはずがない。
つまり林檎さんにとっては、その曲が「夢のあと」なのだ――少なくとも現時点においては。
そのことが、よくわかった。
「茎」では、なにかを選びとることの責任。また、いったん選びとったなら、それをまっとうすることを。
「この世の限り」では、ささやかな、しかし偉大なる日常をつづけるということの稀なる幸福を。
「玉葱のハッピーソング」では、世界がそのような日常で満ちている――満ちていた、ということを。
この3曲で、それらを謳いあげたのち、「玉葱のハッピーソング」の段階では想像もできなかった、日常がある日とつぜん、なんの前ぶれもなく、理不尽に奪い去られるということが起こってしまった、それを経験した以後の私たちが、自覚的かつ積極的に「手をつなぐ」ことをしなければならないと語る「夢のあと」をすえた林檎さんの思いが、とてもよくわかった。
もう私たちは、「世界」があたりまえに存在するということに甘んじているわけにはいかない。
自分でつながないといけないのだ、意識して。
――うっとうしく語ってしまってすいません。じつはコレ入力しながらも号泣してるんですけど私。チョーうっとうしいよ。ほんとダメだ。
終盤は、もうひたすらハッピーだった。「積木崩し」ではちゃんと踊りました。
阿波踊りって万能だよなぁ。「夜行性の生き物三匹」もよかったけど、今回の「御祭騒ぎ」のサンバともよくあってた。マツケンっぽさ、コマ劇場っぽさ、さらにいえばNHK(歌謡コンサートあたり)っぽさもバッチリだ。
アンコールは2度あり(「正しい街」もやった……☆ もうなにも思いのこすことはない……)、2度めのは新曲だった。
歌詞はよくわからなかったものの、ハッピーさに拍車がかかり、「攻め」の姿勢が感じられる一曲である。
こんなことを言うのはたいへんおこがましいのだが、私は林檎さんと誕生日も半月ちがいの同い年で、林檎さんがこの10年でしてきたことを、デビューからずっとコンテンポラリーに目撃してきた。
同い年だからどうだということでもないかもしれないが、林檎さんがしてきたことは、いつも私のしてほしかったことだった。
林檎さんには、デビューからずっとゆるがないものがある。その点は、どんなことをしようが変わっていないと思う。
変化していないのではない。変化はしているが、それはいつも、ひとつの「林檎さん」をつくるための変化なのだ。
私もそういう人間でありたいと思ってきたし、その意味で、いまのところは自分に満足している。
これからも、そういう人間でいたい。そのことを再確認した2日間であった。
『イカの哲学』中沢新一・波多野一郎
…で、このタイミングでこんなもんを読んでしまったわけだ。世界って、ホントつながってるよねぇ……。
しかしコレ、今年の2月に出てたのか……。ぜんぜん気がつかなかった。くっそー、不覚だ。
行き帰りの電車のなかで読んでいたのだが、とくに帰りは泣けてしょうがなかった。
樹川さとみの『箱のなかの海』に、この本にも出てくるイカの眼についての説が紹介されていたのを読んでから、この説がだれのもので、どのような文脈のなかにあるのかということを知りたかったのだが、今回『イカの哲学』によって、はからずもそれが明らかになった。こういうところもつながっているんだよねぇ……。いやはや、まったく驚きである。
イカの眼は人間とおなじカメラ眼で、人間とおなじ情報量をえられるのに、イカにはその情報を処理するだけの脳がそなわっていない。
このことから、「イカという生物は自分のためにではなく、自分を包み込んでいる、自分よりも大きな存在のために、地球の観察を続けているバイオカメラなのだ」と考えた人がいた――ということを知ってから、私にとってイカは特別ないきものだったのである。
この本では、イカに「人間は大昔から魅了され続けてきた」と断言されているが、ということは私はそのひとりだというわけだ。そんなにいるのか、イカに魅了された人って……。
でもさー。ちょっと考えてみてくださいよ。
もしイカがそういう役目を超越者から与えられているのなら、人間のゆくすえってかなりアレじゃないですか。
人間は、電球の光でイカをだましておびきよせてさー、それで一網打尽にしちゃうでしょ。もう、イカにとったら極悪非道の所業ですよ。それこそ、原爆投下とおなじくらいヒドイよ。
ってことは、イカの眼から超越者につたわる人間についての情報って、もう最悪でしょ。こんな卑怯ないきものはいない、いますぐ滅ぼすべきだ、みたいなカンジだよ絶対。チョーやべぇよ人間。
……ということを、『箱のなかの海』を読んだ1997年から、それこそ10年以上も(林檎さんと接してきた10年と重なっていることになるが)妄想しつづけているワケ、私は。
この私以上に、イカの眼について考えている人間っていったら、それこそ研究者くらいしかいないんじゃないかと思ってたんだけど、……まさかこんな論文があったとはねぇ……。
『イカの哲学』は、波多野一郎氏(グンゼの経営者一族のひとりで、秦氏と関係があるっぽい。「ハタノ」って、そういうことなんだろうね。この点もおもしろい)が私家版として出した論文「イカの哲学」を紹介し、そこから温故知新してみよう、というコンセプトである。
バタイユの生命論もリンクされていて、その点でも私には興味深かったのだが、とにかくイカである。
波多野氏がイカの水揚げのアルバイトをとおして「イカの実存」に思いいたる過程は、まったく涙なしには読めないすばらしさである。いやマジで。
それを、中沢氏が神話学の視点から「戦争」と「平和」に結びつけていくわけだが、そこも共感をもって読めたけれど、なにしろとにかく「イカ」である。
やっぱりイカってすごいんだなぁ……。イカばんざい!
そんな感じだ、とりあえず。
この一年で読んだ新書のなかで、(もうホントにあらゆる意味で)いちばんおもしろかった。
ぜひ、広く読まれるべきだと思う。波多野氏の「イカの哲学」だけでもいいから。
世界がつながっていることを、あらゆるいきものの営みによって支えられていることを、より深く実感できる一冊である。
『彩雲国物語 14』雪乃紗衣
『グランドマスター! 5』樹川さとみ
- 2008/11/30|
- 楽。
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